【日本帰省記4】忘れてはいけない520のいのち(下)

続きです。はっきり言って重いですよ。


御巣鷹の尾根に着いてまず目に入るのは、このトイレ。この山奥にトイレが整備されている。


このトイレはもちろん汲み取り式なのだが、その特有の不潔さというか匂いなどがまったくない。本当にきれいに磨き上げられている。実は山守をされている人がいるらしいのだ。おそらく日本航空がその資金を、あるいは人を出しているのかもしれない。ともあれ、山奥に突然現れる清潔なトイレに私は感動した。誰にも褒められずとも、この場所を守り続けている人がいるという事実に。


ここには数えてはいないけれどもおそらく520の墓標が建っている。それぞれの犠牲者の遺体発見場所にひとつづつ。中には長年の風雨に朽ちてしまった墓標もあるが、それはおそらく山守の手によってであろう、添え木をされきちんと建ち続けている。よしんば遺族がすべて亡くなったとしても、犠牲者の墓標は守られ続けるのだろう。また、空の安全を祈る限り、そうあってほしいと思う。


上の写真に、偶然谷口正勝さんの墓標が写っている。この方、30分を超える想像を絶する恐怖の中での迷走飛行の中で、遺書を残されている。ほんの20文字に家族に対する万感の思いが綴られている。


その墓標を見つつ、尾根に登る。そここそが、御巣鷹の尾根。高濱機長をはじめ520人が生還を祈りつつ果たせなかった、30分を超える死闘の果てにたどり着いた場所。


昇魂の碑。


昇魂の碑。なんという言葉なのだろう。魂が昇っていった碑。言葉が、こんなにも重いとは思いもよらなかった。


その裏には犠牲になった520人の芳名録。文字にすればたった数文字のおのおのの名前の後ろに、いったいどれだけの無念さがあるのだろう。どれだけの人生があったのだろう。いのちという、たった三文字の、でもこれ以上の重さのない言葉が、私に語りかけてくるものは多い。


そして、


「空の安全を祈って」と書かれた鐘とこの場所を訪れた人々が思いを記した紙が。


鐘を、鳴らした。その音が、静かな山々に、響き渡った。あの日、日航機が墜ちなければ、おそらく人が入ることなどなかったと思われる、深い、山々に。


この場所を訪れた人たちが記した紙の数々。全部は見ていない。見ることができなかったというのがより正確か。遺族からのメッセージもあれば、私のように、この事故とは何の関係もない人からのメッセージもある。一つ一つのメッセージが語りかけてくるものは大きいが、その中でもひとつ、強く心を掴んだものがあった。


全文を引用するような愚はしない。だけどこの方は、当時日本航空以外の会社の搭乗手続きカウンターにお勤めだったらしい。そして、お盆の繁忙期に、どうも数人の方がキャンセル待ちで空きができたとその会社ではなく運命の123便に乗るために走って行ったそうだ。その後姿が忘れられず、24年ぶりに御巣鷹の尾根を訪れたんだそうな。


この方は、自分の仕事として、運命の123便へ振り替えをしたに過ぎない。が、そのことが24年経った今でも心の重荷になっているらしい。たったこの程度のことでも思い悩んでいる人がいると思うと、520のいのちの向こうにある遺族の思いはいかばかりか。ましてや突如理不尽に命を奪われた520人の無念さは、私ごときが想像できるものではない。


この昇魂の碑よりわずかに登った場所にささやかな小屋がある。ここ、遺族の方などが供物を供える場所。内部には、犠牲者の写真や思い出の品が飾られている。内部の写真は、撮れなかった。死者を冒涜するような気がして。


(123便はこの角度から御巣鷹の尾根に墜落した。)


ここからスゲノ沢に引き返す。スゲノ沢。100人以上の遺体が発見された場所。あるいは、4人の奇跡の生存者が見つかった場所と言うべきか。


123便の墜落から墜落現場発見まで半日を要していることをご存知でしょうか。この遅れゆえに、わざと墜落現場の発見を遅らせたのではないかという謀略説もあるありさま。さらには、事故調査委員会の最終報告書に対し、急減圧はなかったと主張する人も。私のようなシロートが噛み付けるような話ではない。が、急減圧はなかったという主張には確かに納得させられるものがある。123便の真実は、24年経った今でも明らかになっていないのだろうか。だとすれば、今後、明らかになる日は来るのだろうか。


遺族の一人に川北宇夫さんという方がいらっしゃいます。理不尽にもたった一人の娘を奪われたお父様。この方が記した墜落事故のあとという本は実に示唆に富んでいる。この方、「娘が殺されたメカニズム」を娘の無念を晴らすべく、科学者として冷静に分析されている。それによると、今、世界中の航空会社が採用している二点式のシートベルトは危険なんだそうな。


これをフライトアテンダントが使っている三点式の(つまり車のシートベルトのような)ベルトを採用していれば、生存者はもっと多かったのではないかと主張されている。このいのちを守るべきシートベルトが、墜落時には実は胴体を離断する凶器になったのだから。


さらには、座席は後ろ向きにしたほうが安全性は向上するらしい。考えてみれば、これら二点の主張は、実現が難しい類のものではない(一部の航空会社では、団体客のために向かい合わせの席があるそうな)。なのに、今日現在この安全策を採用した航空会社がないことを考えると、川北さんら遺族や亡くなった520人の嘆きはいかばかりか。


墜落時にはこの墓標に記された方々も生存していたとされる。墜落現場の発見がいま少し早ければ。川北さんの主張された安全策が施されていれば、あるいはよりたくさんの人がこの御巣鷹の尾根より生還を果たしていたのかもしれない。詮無いことには違いない。だけど、いのちとはそれほどの重みを持っているものだと私は信じて疑わない。


日が暮れる直前に御巣鷹山より下山。いのちを考える上で、または、現在の肥大した巨大システムを考える上で、これ以上の場所は、地球上にはないと思う。


蛇足ながら、この日記を書いているときにまさに偶然にもこんな記事が読売新聞に載った。

確かに物見遊山の謗りは免れないかもしれない。が、この記事から受ける読者の印象と、私が現地で受けた印象はだいぶ違う。まず、御巣鷹の尾根で出会ったのは、登山の途中ですれ違った日本航空のエンジニアの一行の方々と、そのほかに男性が一人のみ。無論平日だったということもあるだろうが、少なくとも御巣鷹の尾根が観光客でにぎわっているという印象はまったく受けなかった。


本文にも書いたとおり、トイレもきれいに清掃され、たった一つのごみすら見つけることはなかった。それは山守の方の努力による部分が多いのだろうが、少なくとも御巣鷹の尾根が、行儀の悪い観光客によって荒らされている…という状況ではなかったと思う。


おまけとして、123便関連の私が読んだ書籍の一部を記しておきます。

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

墜落事故のあと
(残念ながら絶版の模様)

死角―巨大事故の現場 (新潮文庫)
(これまた絶版の模様。この事故はやはり風化されつつあるのだろうか)

事実の考え方
(絶句。これまで絶版)

墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便 (講談社プラスアルファ文庫)

墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 (講談社プラスアルファ文庫)

隠された証言―日航123便墜落事故 (新潮文庫)