パニック母さん

私の勤める会社、当然電話があります。内線だなんだでそれこそ数百の番号があるのですが、コールセンター(サポセン)につながる電話番号が通常お客さんに知らされています。実は、その番号と電話帳に掲載されている番号は別なのです。


電話帳に出てくる電話番号を使うとコールセンターではなく、受付嬢の電話が鳴ります。で、この番号に鳴る電話はロクなもんじゃないと少なくとも私の頭の中では相場が決まってます。たいがいが、電話帳から電話番号を調べてきた飛び込みセールス電話とかその類のもの。


仕事をしていると私の内線が鳴る。私が自分の部門のいちばん下っ端なので、誰に回していいかはっきりしない電話は私にかかってくるのだ。また、くだらんセールス電話かと思って受話器を取ると…


受付嬢:「部長さんは在席してる?」
私:「ええと、部長は(ドアが閉まっているので)自分の部屋で会議中みたいだね」
受付嬢:「(うちの部の同僚の)John(仮名)のお母さんが部長と『大至急』話がしたいらしいんだけど、電話に出てくれないのよね」
私:「ああそう。だったら先方の電話番号きいといて。(会議中の部屋に)メモ入れるから」


数分後


受付嬢:「電話番号は…でお母さんは『電話の前で待っているから大至急連絡ください』とのことです」


なんじゃそりゃ?いったいどんな緊急事態なんだ?家族の危篤か?


よく考えてみると、誰か家族の危篤なら、親は本人と話をしたがるはずで、部長と話をしなければいけないというのはおかしい。しかも、隣の席の同僚に言われて気がついたのだが、Johnは今日、会社に来てないぞ。なんだ?出張でもしてて出張先で不慮の事故にでも巻き込まれたか?想像はだんだんひどくなってゆく。


殴り書きの電話番号と用件を黄色い付箋紙に書き直して部長室のドアをノック。何の会議か知らんが、外部の人がいるし、やだやだ。常識的には会議中のドアなんてノックすべきじゃないんだけどなあ。が、人の生死がかかわっている(かもしれない)今回は、例外だ。


私:「部長。会議中に失礼します。このメモをお渡ししたいのですが」


部長は会議を中座してケータイと私のメモを持ちどこかへ消えた。たぶん電話をかけているんだろう。


その間にも今度はコールセンターの女の子からも電話がかかる。同僚のお母さん、今度はコールセンターにまで電話をしたらしい。一体全体どんな緊急事態なんだ?まさかJohnが死んだか?くらいまで思っていると部長が私の机にやってきて


部長:「すべて解決したから」


と一言言い残し、部長室へと戻っていった。


これで話はおしまいなんですが、さてさて、いったいどんな「緊急事態」だったのか。数時間後に受付嬢ほかいくつかの情報筋から聞いた話を総合すると、Johnはこの日から海外にお出かけで、Johnのお母さんが彼が出かけた後にキッチンにマラリアの予防薬を忘れているのを見て一気にパニックに陥ったらしい。「息子がマラリアの予防薬を忘れた。息子がマラリアで死んじゃう」って。


私、マラリア危険地域に渡航したことがないので自分の体験としては書けないのですが、マラリアの予防薬ってのはけっこう副作用が強くて、人によってはその副作用の強さと予防薬の効用を天秤にかけて予防薬を服用しないって人がけっこういるらしい。私の記憶が正しければ、インドに出張(ってか短期赴任)したひでかすもこの副作用の強さを懸念して予防薬を飲まなかった人の一人。つまり、「マラリアの予防薬は絶対に使わなければならない」ってもんじゃないらしい。


ましてや、マラリアの予防薬を忘れたとしても現地で手に入れるという方法もあるんじゃないかと思う。つまり、決してパニックに陥る必要はないわけでして。


百歩譲ってパニックに陥ってもやむをえなかったとしても、会社くんだりまで電話をかけてきた理由がわからない。その点は、「Johnのケータイがつながらなかったから」だそうな。なので、「会社なら彼のケータイ以外にも連絡方法があるんじゃないか」と考えたんだろうな。お母様、残念ながらそのようなものはございません。


で、その噂話をしているときに私は相手に言ったんですよ。


私:「まあ、会社の出張だったら会社が別にケータイを持たせているかもしれないとか思うかもしれないから決して間違った判断とは言えないよね。パニクってたのはいただけないけど」


すると相手は頭を振って


相手:「いや、彼、休暇でどっかに行ったらしいよ」


…休暇かい。ますます、会社が絡んでくる要素がないじゃねえか。


幸い部長は私に「くだらんメモ入れてくんじゃねえ」と怒ったりはしませんでしたが、なんだか思いっきり脱力した秋の日の午後でございました。それにしてもお母さん、宅の息子は三十代なんだから子離れしようよ。