【日本帰省記3】忘れてはいけない520のいのち(上)

なんだかんだで東京で数日過ごして向かったのは長野。長野にも大事な友人がいるのだ。熊谷まで迎えに来てくれるというので上野駅から熊谷駅まで移動することに。まず乗ったのは京成線。ここに、今まで気になって気になってしょーがなかったものがある。


行商専用車。


最近ほかは知らんが首都圏のあちこちで見かけるのは女性専用車。そんなもんは珍しくない。だけど、行商専用車ってほかでは見たことがないぞよ。これは列車を1本逃がしてでも乗る価値はあると思う。…お、きたぞ、行商専用車。


…ってフツーの電車じゃん。が、最後尾車両の窓を見ると


嵩高荷物専用車…って見たことのないことが書いてあるぞ。


…お、その件の「嵩高荷物」とやらが降りてきた。いや、正確には嵩高荷物を背負ったばあちゃんが降りてきた。ここはもう終点の上野に程近い駅。なので嵩高荷物…じゃなかった嵩高荷物を持ったお客さんは少ない。ホームにはばあちゃんを迎えに来たじーちゃんが数人。いずれにしても、年寄りばっかでこの行商専用車の将来が危ぶまれます。北限の海女さんみたいに、美人の行商のおねえさんが登場したら一躍有名になったりして。


貫通路にはなぜか紫地の「行商専用車両」の幕が。レアもんだぞ。これ。たぶん。


ちなみに、京成線の駅前ではこのように千葉からやってきたおばちゃんが農作物を売ってます。ただ、このおばちゃん、行商専用車が到着する前からここで商売していたというオチがあったりするのだが。


上野駅から乗ったのは特急列車。別に各駅停車でもよかったのだが、やっぱり旅情があるのは特急だい…と無意味に900円ほどの特急料金を払いました。


うーん。昭和の香りがぷんぷんと。さすが上野駅、こんな列車が未だに乗り入れているのだなと感心(脳内BGMは「津軽海峡冬景色」でお願いします)。


熊谷駅から向かったのは碓氷峠。


ここってちょっと不思議な峠です。峠ってフツー登って頂上があって下るっていう感じだと思うんですが、ここって安中市(大雑把に海抜450メートル)から上り始めて上り詰めたら軽井沢の台地(同950メートル)に一気に到達してしまう。つまり、下りがない。ちなみに、今回調べていて「片峠」という便利な言葉もあると今回知りました。この峠、典型的な片峠らしいです。


お昼ごはんは碓氷峠名物、峠の釜飯。碓氷峠を越える新幹線は峠などなかったかのように駆け抜けてしまう。だけど、峠名物の駅弁はしっかり生き残り、そういえば、デパートの全国駅弁大会でよく見るような…。


その途中に、私はまったく知らなかったのですが、旧信越線の廃線があるらしい。碓氷峠の旧道からはこのように信越線の旧線がよく見えます。


で、その旧線は遊歩道化されて散歩感覚で歩くことができます。写真はひとつ上の写真の橋の上で撮ったもの。


軽井沢から佐久、そして十石峠を経由して向かったのは群馬県の県境の村、


上野村。


上野村と聞いて思い出すことがある人もいるのではないかと。


そう。御巣鷹の尾根。


1985年の8月に520人の方が亡くなった場所。私、この場所に一度行ってみたいと思っていました。と言っても誰か知っている人が犠牲になったわけではなく。が、現在技術の英知を集めて作られたシステムが破綻した、フェイルセーフと呼ばれる何重もの安全装置があるはずなのに520の命が奪われた…この事実に愕然とするわけなのです。現在の技術が自分の手に負えないものになっているという事実。


たとえばさ、乗っている車が壊れたらブレーキをかけて路肩に寄せて止まればいいわけ。運転手が心臓発作を起こしたら、横からハンドルを握ることもできる。だけど、自分が乗っているヒコーキが壊れたら…私にはどーしていいかわからない。もしかしたら、今の文明ってそーゆーもんなのかもしれない。現在の、何でもできると思い上がっている人たちの頭を冷やすには、これ以上の場所はないように思える。520のいのちが語りかけてくるものは重い。


当時「日本のチベット」と呼ばれたらしい上野村は当然山深いところにあります(写真は、十石峠の頂上より撮影)。が、しかし、高速道路もわりかし近くまで伸びてきて、事故当時に比べると交通事情は格段によくなっていると思われます。


今回は長野からだったので、十石峠を選択(写真は十石峠の頂上にある展望台)。事故当時に当初墜落場所と疑われマスコミが大挙して押しかけたぶどう峠に行くのも一考と思ったが、なんとなく冬季閉鎖してる可能性があるのではないかと思い、いちおう腐っても国道の十石峠に(おそらくこの辺は「雪国の現状を知らんやつ」と笑われるんだろうけど)。


はい。当然、国道ではなく酷道でございました。


ところが、御巣鷹の尾根に向かう道路でとんでもない異変発生。ここに行き着くまで、車の行き違いすらまともにできないような道だったのに突如大規模なトンネルが連続する立派な道路に。ちなみにこの道は御巣鷹の尾根で行き止まり。そんなに御巣鷹の尾根に登る人が多いのか。


が、突然道は再び行き違いもできない道に逆戻り。


種明かしをすると、御巣鷹の尾根のすぐ下の沢に発電用のダムが建設され、今までの狭い道はダムの底に沈んでしまったのだ。その付け替え用の道はあまりに立派なトンネルを数本突いた道路でしたとさ。


そして、御巣鷹の尾根の登山口に着いたら、異変に気がついた。あれ、その先にも道が続いている。そこから降りてくるのは短尺ながらも観光バス。この細い道をよく登ってきたな。


そしてそこから1キロほど登ったところに小さな駐車場がありそこにもバスが一台止まっている。


登山道に入ってすぐに、バスの乗客と思われる10人ほどのグループとすれ違う。全員20代くらいと思われ、事故の遺族だとすれば、まだ事故当時には生まれていなかったような感じの人も。


バスのフロントグラスに書いてあった表示によると、実はこの方々、日本航空のエンジニアのご一行様。そう、労を厭わずおそらく東京からわざわざバスでやってきたのだ。おそらく24年という長い時間が経った今でも、日本航空にとってこの事故は風化させてはならないものなのだろう(個人的には日本航空どころか人類にとって忘れてはならない場所であるとすら思う)。


確かに、空の安全に対して思いを致すときに、日本航空にとってこれ以上の場所はない。そして、その場所に未だに社員が足を運んでいることに私は敬意を表したい。航空会社にとって安全以上に大事なことはないのだから。


スゲノ沢に沿って山を登る。と言っても、登山道は遊歩道なみに整備され軽装で十分登れる程度までに整備されている。しかも、登山道の半ばまで車で登れるように改善されたので、実際に登る距離は800メートル程度。それでも遺族の高齢化が進み、この登山道をしても墜落現場まで登れない遺族が増えているとか。


ええい、隠しててもしょうがない。白状します。実は、私、御巣鷹の尾根に登るのは二度目です。実は十数年ほど前にも登ってます。この時は、ダム建設のためのダンプカーが粉塵をあげて行き違いのできない道を行き交いし、登山口は現在の場所よりもはるかに低い場所でした。


物見遊山というご批判は甘んじて受けます。これを掲載する段階になって読売新聞にこの御巣鷹の尾根がちょっとした「観光地」になっているという記事を読んだ。なんでも、映画、「クライマーズハイ」や「沈まぬ太陽」の成功により、観光がてらにここを訪れる人が週末を中心に多くいるそうな。遺族にとってみれば、家族や大事な人の最期の地が面白半分に踏みにじられていると思うのも頷ける。


だけどさ、その数は少なくとも、この事故を、空の安全を真面目に考える人がいて、労を厭わずこの場所を訪れるなら、その人たちをここで亡くなった520人のいのちは拒まないと考えるのはあまりに調子のいい解釈だろうか。映画が流行してこの場所が「流行」の場所になったとしてもそれはほんの一過性のことに過ぎない。そのあとに、空の安全を真面目に考える人が静かにここを訪れると信じている。そう、日航のエンジニアの一行のように。


閑話休題。登山道の半ばに「スゲノ沢のささやき」という碑がある。私がどうこう言うまでもない。この碑を読んでほしい。


この場所で520のいのちが語りかけてくるものは、私の拙文などでは到底語れないほど重い。


ここからさらに数百メートル登ると、いよいよ墜落現場に到着。長くなったので、以下後編に続く。